- 2026/02/05
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★(3)
秋の叙勲で旭日小綬章を受章した俳優の寺尾聰(71)。今は父の宇野重吉氏に迫るほどの名優だが、若いころは手もつけられないヤンチャだった。石原裕次郎の番記者だった筆者がその“ワンパク時代”をつづる。
◇
わけはどうあれ、スポーツ紙の部長の名刺を目前で破り捨てる…。寺尾聰の失礼な行動に、名刺を出した当人もあ然とし立ちすくんだ。
石原プロの小林正彦専務は飛んできて「ばか者、すぐに謝れ!」と一喝。ところが寺尾は「知らないねぇ」とふてくされ、プイと立ち去った。
石原プロは規則と礼儀を重んじる男の軍団。特にマスコミ対応には神経を使う。例えば石原プロ製作のヒット映画「栄光への5000キロ」(1969年)のアフリカロケで、ナイロビまで出張し記事を書いた記者への恩義を半世紀たっても忘れず、定期的に「ナイロビ会」を催したほどだ。
それだけに、寺尾の目に余る態度は軍団でも評判となり、聞き及んだ裕次郎さんは腕組みをして黙考したという。
ジュディ・オングとも恋をしたが「結婚後は引退して家庭に入ってほしい」と強要したため、一家を支えていた彼女には断られている。
お次は石原プロ製作のテレビ朝日「西部警察」にゲスト出演した14歳年下の星野真弓(当時19歳)をロケ先の博多で口説き落とす。
星野は79年、資生堂のCM「微笑の法則」のイメージガールとして登場。キュートな美人で「前途洋々」の有望株だった。離婚した范文雀と同じ「職場恋愛」だったが今度の事情は違った。
モデル、女優として脚光を浴びていた星野は、西田敏行主演の日本テレビ「池中玄太80キロ」にも出演していた。しかし「おめでた」が分かると、彼女は自分の出番が終わるや引退したのだ。
「できちゃった結婚」について、石原プロに取材が殺到するが、寺尾は取材を一切拒否した。芸能部の仲川幸夫部長(当時)が本人から事情を聞き、事実関係だけ公表する苦肉の策で乗り切ろうとしたが「天下の石原プロが所属俳優にコケにされている」と批判も。
寺尾はなぜか、結婚すると大きなチャンスに恵まれる。翌81年に発売したシングル「ルビーの指環」が空前の大ヒットとなったのだ。サングラス姿でささやくように歌うこの曲は日本レコード大賞を受賞し、NHK「紅白歌合戦」に初出場。そしてTBS「ザ・ベストテン」では「SHADOW CITY」と「出航SASURAI」の3曲が同時にランクイン。12週連続1位という快挙を成し遂げたのだ。
そんな絶頂期に、寺尾は石原軍団から「破門」を通告された。(フリーライター・中野信行)
■寺尾聰(てらお・あきら) 俳優、歌手。1947年5月18日生まれ、神奈川県出身。俳優の宇野重吉の長男。66年にグループサウンズ「ザ・サベージ」でデビューし、ベースを担当。68年には石原裕次郎主演の映画「黒部の太陽」で俳優デビュー。76年「大都会」、79年「西部警察」に出演。81年、「ルビーの指環」が大ヒットした。
2000年の映画「雨あがる」、03年の「半落ち」に主演して好評を得る。17年のTBS「陸王」などに出演。今月、旭日小綬章を受章。